体が……動かねえ
あーあ、何だかまたまた無駄に一日を過ごした。それもほとんど人と話さず。
テレビを見て飯を食うだけの休日。それなのになぜだろう、この後悔のなさは。
年を取ったとは言わないが、最近の自分は、十年前の自分と明らかに違う。まず後悔をするということが少ない。今日の夕方だって、久しぶりにアバンティ(人気ラジオ番組のサタデイ・ウェイティング・バー)を聴き逃したのに、何の後悔もない。だったら、なに? という感じがする。確かにそうなのだ。聴き逃したからって、なんなのだ。
そう言えば昔のことを思い出して、腹を立てることも少なくなった。これでも二十代の頃はよく、拳を壁に当てたり、周囲にいる弱い人間に当たったりしたものだ。それが最近は、つまらないことがきっかけで、つまらない過去に腹を立てることが少なくなった。そんなこと自体がつまらないと、本当に思えるようになった。これもよりよく生きるための、神様の知恵なのか。
自分は宗教を信じていないから、もし信じられるようになったら、どんなに幸せなのかと思えるような日々もあった。何もかも捨てて山奥のようなところで暮らしたい、あるいはホームレスのようになりたいと、本気で思ったこともあった。今振り返れば、何もかもつまらないことに神経質になっていただけだ。そんなこと自体がつまらなかったと、今はそう思える。
あるいはたまたま今がそういう平穏な時期なのか? 一、二年経ったらまたイライラしやすい自分に戻るのか、それは分からない。しかし、明らかに二十代の頃の自分と、今の自分とは違う。最近よくテレビで、多感な時期の子供が家族や同級生を傷つけたりするニュースが流れてくるが、彼らが本当の意味で自分を客観視できるようになるには、更正プログラムよりも、時間が必要なのだろう。三十代、四十代になれば、自然に落ち着いてくる。これはきっと古代魚や類人猿の時代から受け継がれた、自然の摂理なのだ。
結婚というのも、もうどうでもよくなってくるのが、おそらくこの時期からなのだろう。明らかに、自分の心にはそんな感情が芽生えている。決して自分のDNAを残したくないなどといういじけた感情ではなく、むしろ単なる諦めの境地に近い。そしてその諦めの境地が、何だか今の自分には、ありがたく思えてくる。
一日何をしなくても後悔しない、そんな自分がありがたく思えてくる。不思議なのもので、昼間は何かをしなければと焦ることはあっても、夜になり、一日が終わりに近付くと、そんな焦りがふーっと消えて行く。それと同じで、人間八十年、自分はまだやっと半分を過ごした所だが、残りが少なくなればなるほど、焦りの感情が減って行くのだろう。これは一種の矛盾だ。残り少なくなればなるほど、焦らなくなるなんて。
その矛盾も、古代魚の時代からDNAに埋め込まれていたのだと思えばありがたくなる。自分は年を取ったつもりは全然ないが、最近は難しい本を1ページ1ページ読むことにさえ、快感を覚える。何もかも思いつくまま手を出して、結局何も出来なかった昔と比べ、名作をゆっくり読む今の時間の方が、どんなに充実しているか分からない。
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